INICIAR SESIÓN赤い光柱の根元で、縵谷玄理は誰にも急かされることなく箱へ手を置いた。所有権を示す赤い輪が彼の手首を巡ると、周囲で様子を窺っていた数人が露骨に足を止める。大型斧の刃先から黒い血が滴り、その足元には変異感染者3体がまだ形を残して転がっていた。箱そのものの価値より、そこへ近づくために越えなければならない男の方が危険だと、誰の目にも分かった。灰乃は一瞬だけ赤箱を見たあと、迷わず背を向けた。
玄理の背後では、箱を狙っていた若い男が仲間に腕を掴まれ、首を横へ振られている。力の差を理解できる者から先に諦めていく光景だった。灰乃も同じ判断をしただけで、そこに敗北感はなかった。必要なのは一番価値の高い物を奪うことではなく、次の夜まで自分が生き残れるだけの資源を、損耗を抑えて確保することだった。
1周目で赤箱の中身に救われたことは何度もあるが、赤い色が必ず生存へつながるわけではないことも知っている。まして、すでに所有権が移った箱を奪うために、開始2日目からLEVEL5へ達している人間と争う理由などなかった。灰乃が欲しいのは他人の獲物ではなく、自分が取れる位置にある資源だ。頭の中で区域図を組み直し、中央通路を離れて北東側の連絡区画へ向かう。1周目の記憶が正しければ、最初の赤箱から数分遅れて、管理配管脇の死角へ紫箱が追加出現する。前の人生では、その存在を知ったのは別のプレイヤーが中身を自慢していた夜だった。取り返せなかった箱の位置や時刻まで覚えている自分を、執念深いと思ったことはない。死んだ人間に残った記憶を、今度の生存へ使わない方が不自然だった。
歩き出した灰乃の背中へ、ほんの一瞬だけ視線が触れた。振り返ると、玄理は赤箱をアイテム欄へ収めたところで、こちらを見ていた。暗い琥珀色の目に感情らしいものは浮かばず、追ってくる様子もない。ただ、皆が赤箱へ殺到する中で逆方向へ向かった灰乃の判断を、確認するように一度だけ見た。それだけで玄理は視線を外し、倒れた感染者のそばへ落ちていた斧のカバーを拾い上げた。
灰乃も足を止めなかった。背後では人々が玄理から距離を取りつつ、次に出る箱を探して散り始めている。その中に航志と泉帆の姿もあったが、航志だけは紫箱を抱えて離れる灰乃を見失わないよう、一定の距離を保って追ってきた。先ほどまで夫婦の協力を口にしていた男の歩調は、もう話し合いを求める人間のものではない。灰乃はその足音を聞きながら、連絡通路の角を2つ曲がった。
管理配管の陰へ紫の光が生まれたのは、その直後だった。灰乃は周囲を確認してから箱へ触れ、所有権を確定させる。これで手元には未開封の紫箱が2つある。片方は先ほど確保したもの、もう片方は今手にしたものだった。箱を腕へ抱えた瞬間、背後の足音が速まり、航志が人目の少ない連絡通路へ入ってくる。
「2つも取ったんだから、1つ寄越せ」
柔らかな声音は消えていた。航志は数歩先で立ち止まり、妻へ譲歩を求めるのではなく、自分の取り分を確認するように手を差し出している。泉帆は少し離れた通路の入口に残り、周囲を見張るようにこちらを窺っていた。中央区画ではまだ怒号が続いているが、この細い通路には他のプレイヤーの姿がない。航志がここまで待った理由を、灰乃はそれだけで理解した。
「自分で取ればよかったでしょう」
「お前が場所を知ってたんだろ。だったら家族に回すのが普通だ」
「私は世帯リンクを拒否しています」
「システムの話なんかしてない」
航志の声がさらに低くなった。灰乃が箱を抱えたまま横を抜けようとすると、彼は進路を塞ぐように身体をずらし、180cmの体格で通路を狭くする。終末以前、意見がぶつかった時にも同じことがあった。怒鳴らなくても、近づき、上から見下ろし、相手が退くまで逃げ道を狭めれば、自分は穏やかなまま要求を通せる。灰乃はそれを「話し合い」だと思わされていた。
「夫にそんな口を利くのか」
「夫なら、妻の持ち物を要求して当然なんですか」
「屁理屈を言うな。俺はお前1人で抱え込むのは危険だと言ってるんだ」
言い終えるより早く、航志の右手が灰乃の腕を掴んだ。指が肘の少し上へ食い込み、身体ごと引き寄せられる。灰乃は反射的に航志の足の甲を強く踏み、掴まれた腕を親指側へ捻って抜こうとした。体勢を崩させることはできても、体格と腕力の差まで消えたわけではない。航志が苛立って腕を引いた拍子に灰乃の身体が横へ振られ、肩が硬い壁へ激しくぶつかった。
鈍い痛みが肩から首筋へ走り、歯が唇の内側へ当たった。口の中へ鉄の味が広がり、下唇の端から温かい血が一筋落ちる。胸の奥で心拍が速くなったため、灰乃は息を詰めず、意識して細く吐いた。紫箱だけは腕の内側へ抱え込み、航志から離れない。痛みより、ここで手を放したときに彼が当然の顔で箱を持ち去る光景の方が鮮明に想像できた。
心臓が速く打つこと自体より、そこへ恐怖が重なって呼吸まで乱れる方が危ない。灰乃は焦って息を吸い込まず、肩の痛みに合わせてゆっくり吐いた。航志はそんな身体の調整を、以前なら「また大げさにしている」と嫌そうに眺めていた男だった。病気を心配しているという言葉と、実際に灰乃の身体へ向ける扱いが一致したことはほとんどない。
「そんなに意地張ってどうするんだ。最後には俺を頼るくせに」
「もう頼りません」
「お前1人じゃ無理だ。病気だってあるだろ。今まで誰が面倒見てきたと思ってる」
その言葉を聞いた瞬間、灰乃の中で1周目の鉄扉が音もなく重なった。右腕を感染者に噛まれ、助けを求めて泣いていた自分を、航志は安全区域の内側から見ていた。家族を守るためだと言い、妻だけを扉の外へ残した男が、今は病気を理由に自分なしでは生きられないと言っている。灰乃は血の味を舌先で確かめながら、航志の目をまっすぐ見た。
「あなたを頼ったから死んだんです」
航志の指から、一瞬だけ力が抜けた。「……何を言ってる?」と返した声には、怒りより戸惑いが強く滲んでいる。自分でも、口にするつもりのなかった言葉だった。1周目を知らない航志に意味が分かるはずもなく、彼の顔には理解できないものを警戒するような色が浮かんだ。その隙に腕を引いたが、航志はすぐ我に返り、今度は紫箱へ手を伸ばした。灰乃は後ろへ下がりながら周囲へ視線を走らせ、壁際の消防設備置き場に転がっている古い消火器を見つけた。
灰乃は踵で消火器の胴を強く蹴った。中身を抜かれた金属筒は予想以上に軽く、硬い床を甲高い音で跳ねながら航志の足元へ転がっていく。航志が反射的に片足を引いたところへ、灰乃は箱を抱えたまま脇をすり抜けた。肩を動かすたび痛みが走り、唇からはまだ血が滲んでいたが、振り返らずに走る。自分の居室番号が見えたときには、背後で航志の靴音も追いつきかけていた。
扉へ手を触れると所有者認証が走り、隙間が開く。灰乃は身体を滑り込ませ、航志の手が届く直前に扉を閉めた。補強された金属扉が噛み合い、内部ロックが作動する。次の瞬間、外側から強い蹴りが入り、LEVEL3の扉全体が低く震えた。昨日までなら、その音だけで相手を怒らせたことを後悔していたかもしれないが、今の灰乃は紫箱を床へ下ろし、まず自分の呼吸を整えた。
「開けろ、灰乃!」
扉越しの声に応じず、洗面台まで歩いた。鏡を見ると、右肩の服が擦れて白く汚れ、下唇の端が浅く裂けている。灰乃は清潔な布を水で湿らせて血を押さえ、心拍が落ち着くまで壁へ背を預けなかった。極端な緊張と痛みのあとに無理な呼吸を重ねる方が危険だと、長年の通院で知っている。震えるほどではない指で脈を取り、乱れが続いていないことを確認したところで、端末から連続した通知音が鳴った。世界チャットの未読数が急速に増えている。開くと、最上部近くに航志の名前があり、数分前の投稿がすでに複数回引用されていた。
〈俺の妻が家族用資源を独占している。母と父が死んだ直後なのに、話し合いにも応じない〉
その下へ、間を置かず次の文章が追加された。 〈もともと心臓に病気がある。極限状態で判断力が落ちてるかもしれないから、見かけても刺激しないでほしい。俺は夫として連れ戻したいだけだ〉灰乃の指が画面の上で止まった。先天性QT延長症候群は、他人の物資を奪う理由にも、判断能力を失う病気にもならない。それを最もよく知っているはずの航志が、心配する夫の言葉へ形を変え、自分に都合のよい情報だけを世界へ投げている。終末以前にも、灰乃が残業を断れば「身体が弱いから無理をさせられない」、1人で外出しようとすれば「何かあったら心配だから」と言い、彼女の選択を制限する理由として病気を使ってきた。守っているように見える言葉ほど、外側から反論しづらいことを、営業職の航志は知り尽くしている。診断名そのものを書かなかったことにも計算を感じた。具体的な病名を出せば調べる人間が現れるが、「心臓に病気がある」とだけ書けば、弱い、危険、正常な判断ができないという印象だけを好きな形で膨らませられる。灰乃の身体は、今度は物資を奪うための説明材料にされた。
〈家族用って証拠あるのか?〉
〈妻なら夫と共有するのが普通じゃない?〉 〈病気なら単独行動は危ないだろ〉 〈ランキング上位の女だよな。そんな弱いのか?〉文字が次々に流れ、事実を知らない人間たちが、それぞれ勝手な灰乃像を組み立て始める。泉帆はまだ書き込んでいなかったが、航志の投稿へ反応をつけた表示が見えた。灰乃は訂正文を打ちかけて指を止め、すべて消した。今ここで航志と世界チャット上の人間を説得するために時間を使っても、紫箱の中身も自分の安全も増えない。それより危険なのは、病気という情報が、今後自分を狙う者へ弱点として渡ったことだった。
世界チャットを閉じた瞬間、室内の照明が一度だけ暗くなった。広告端末ではなく、壁面のシステム画面そのものへ細い金色の線が走り、通常通知とは異なる枠が形成される。灰乃は血を押さえていた布を下ろし、画面の中央へ浮かんだ文字を見た。警告でもランキング更新でもない表示は、妙に静かで、それだけに不気味だった。
〈特殊イベント発生〉
〈攻略対象を確認しました〉 〈対象:縵谷玄理〉 〈現在親密度:0〉 〈最終報酬:非公開〉灰乃はしばらく瞬きをしなかった。攻略という言葉なら、区域や敵、仕掛けに対して使われるのであれば理解できる。しかし対象欄に表示されているのは場所でも感染者でもなく、数十分前に初めて姿を見た男の名前だった。しかも親密度という数値まで添えられている。何かの契約条件なのか、共闘相手を指定する機能なのか、画面を触っても詳細説明は開かなかった。
表示名の横には、玄理の現在地も能力値も出ていない。あるのは親密度という、戦闘力とは無関係に見える数字だけだった。しかも値は0で、今まで交わしたものが一度の視線だけなのだから当然とも思える。問題は、なぜ2048人もいる区域で、システムが彼1人だけを選んだのかということだった。
「……攻略?」
自分の声が、妙に静かな部屋へ落ちた。最終報酬が非公開である以上、現時点では価値の判断さえできない。灰乃は閉じる操作を試したが、金色の枠は半透明になっただけで、視界の端へ小さく残った。そこに〈縵谷玄理・親密度0〉と表示され続けていることが、広告の馬鹿げた明るさとは別種の不快さを生んだ。
そのとき監視画面へ人影が映った。廊下の端から歩いてきた玄理を見た途端、扉の前に居座っていた航志の姿勢が変わる。大型斧を片手に下げた玄理は急いでも威嚇してもいないのに、航志は先ほどまで何度も蹴っていた扉から自然に距離を取った。LEVEL5という表示と、赤箱の前に転がっていた変異感染者3体を思い出したのだろう。航志は玄理へ何か言うこともなく、通路の奥で待つ泉帆の方へ下がっていった。
玄理は航志を追わなかった。灰乃の居室前まで来ると足を止め、扉を1度だけ拳で叩く。力任せではない短い音だったが、さっきまで航志が蹴っていた衝撃との違いははっきり分かった。灰乃はロックを解除せず、監視画面とインターホンだけをつないだ。
「蓼丸」
「何ですか」
「落としたぞ」
玄理が右手を持ち上げた。節の目立つ指の間に挟まれていたのは、見間違えようのない薄い銀色のケースだった。祖母から贈られ、蓋の裏に「帰る場所は自分で決める」と刻まれた、灰乃の薬ケースだった。航志に腕を掴まれ、壁へ叩きつけられた拍子に鞄の内ポケットから滑り落ちたのだろう。灰乃は無意識に自分の鞄へ手を伸ばし、空になった内ポケットへ指を入れたまま、監視画面の中で玄理が持つ銀色のケースを見つめた。
航志に薬ケースを奪われてから、灰乃が最初にしたのは残っている予備薬をすべて机の上へ並べることだった。普段は銀色のケースへ数日分だけ移し、残りを別に保管していたため、完全に手元から失ったわけではない。それでも、袋から出した錠剤を一つずつ数えていくと、安心できる量ではなかった。終末以前のように病院へ行けば処方してもらえる世界ではなく、次に同じ薬が手に入る保証もない。広告恩寵で医療品が出る可能性はあるが、必要な薬剤を指定して引き当てられる仕組みではなかった。茉緒は灰乃の向かいへ座り、薬の包装と灰乃が覚えている処方内容を照らし合わせた。安全区域で検出された潜伏感染者が誰なのかは依然として分かっておらず、4人は一定距離を保ち、直接触れる物も共有しないようにしている。それでも灰乃の薬が奪われたことを知ると、茉緒は自分の居室から持ってきた医療記録用の端末を広げ、心疾患の薬剤候補を一つずつ確認した。表情はいつも以上に険しく、少しでも曖昧な情報が出るたびに灰乃へ問い直す。「代替薬を適当に使うな。心臓の薬は名前が似てるからで選ぶものじゃない」「分かっています」「分かってる奴が、残りを日数で薄く割って飲もうとするなよ」灰乃は返事をしなかった。考えていたことを見抜かれたらしい。薬を長く持たせるため服用間隔を勝手に延ばせば、必要な血中濃度を維持できず、かえって危険が増す可能性がある。茉緒は人間専門の医師ではないと言いながら、その程度のことを知らないほど薬剤知識が浅いわけではなかった。「なら取り返す」茉緒は断定するように言った。灰乃は机の端へ指を置き、航志から届いた再統合審査の残り時間を見る。22時間余り。審査が終わるまで1時間ごとに何かが奪われる可能性があり、次が薬とは限らない。武器、防御設備、保存水、それどころか広告恩寵に関係する端末まで〈共有必需品〉と判定されれば、航志の手へ移る可能性がある。残り時間を待ってから動くという選択は、最初から存在しなかった。玄理は壁際に立ったまま、灰乃の薬と残高表示を交互に見ていた。やがて自分の端末を開き、医療系ランダムボックスの出現情報を検索する。ランキング上位の彼が持つコインは少なくなく、さらに赤箱から得た物資もいくつか残っているらしい。「俺のコインを使う。医療ボックスを買える奴を探す」「必要ありません」「必要だろ」「あなたの資
安全区画を出た4人は、互いに2歩以上の距離を取ったまま中央通路へ散った。〈潜伏感染反応を1名検出しました〉という表示は消えず、誰が該当者なのかだけが頑なに伏せられている。茉緒は最初に自分の手首と首筋を確かめ、啓吾にも袖をまくるよう指示したが、目視で分かる噛み傷や引っかき傷は見つからなかった。玄理の右肩と左腕には夜狩りで負った傷があるものの、いずれも感染者の体液が直接入った形跡はなく、灰乃も自分に共有された浅い裂傷以外に異常を感じていない。それでもシステムが反応した以上、誰か1人の身体の中で何かが始まっていることだけは確かだった。「全員、自分の部屋に戻るまで誰にも触るな。体温、意識状態、瞳孔、痙攣の有無を30分おきに確認する」茉緒の声には苛立ちが混じっていたが、恐怖で判断を失ってはいなかった。人間専門の医師ではないと言いながら、少なくとも何もせず待つよりはましな監視手順を組み立てている。啓吾は青ざめた顔で何度も頷き、玄理は灰乃の腕へ視線を向けたあと、自分の傷口を見下ろした。灰乃も同じことを考えていた。バインドで負傷を共有している以上、感染まで共有されるのかは表示されていない。もし玄理が感染していれば自分へ影響する可能性があり、逆も同じだった。安全区画の白い外壁が背後で沈み始める。7人を消した霧も、そこへ縋りついていた手の跡も、数分前の出来事とは思えないほど綺麗に消えていく。その空白を見つめていた灰乃は、天井近くのメンテナンスパネルが開く音に気づいた。砲撃で破壊された箇所から1人の男が降りてくる。配線を掴んで床へ着地した航志は、服の肩や膝へ埃をつけながらも怪我らしい怪我をしておらず、自分だけが別の逃げ道を見つけたことへ安堵したような息を吐いた。灰乃と目が合うと、航志の表情が変わった。安全区画の外で7人が消えたことより、灰乃が4人の枠へ入って生き残ったことを確認した時の方が目の奥へ強い光が宿る。その視線は、昼間に紫箱を抱えていた灰乃を見た時と同じだった。妻が無事だったことへの安堵ではなく、まだ自分の手へ戻せる資源が残っていると確かめた人間の目だった。「灰乃」呼ばれても灰乃は動かなかった。玄理が半歩だけ身体の向きを変え、航志と灰乃の間へ割って入れる位置を取る。茉緒は感染反応の件がある以上、今ここで余計な接触を増やすなと言いたげに眉を寄せたが、航志はそんな空気を
〈閉鎖まで残り10分〉という数字が点灯した直後、安全区画の周囲へ新しい表示が重なった。乳白色の壁に守られた内部には、大人が十数人立っても余裕がありそうな広さがある。それなのに入口の上には〈入室可能枠:4〉と明記され、その下へ〈入室には避難鍵が必要です〉という条件が追加された。さらに4つの光点が区域図上へ散らばり、〈避難鍵を配置しました〉と通知された瞬間、それまで互いの様子を窺っていた12人が一斉に走り出した。誰かが先に動けば、残りも止まってはいられない。灰乃は中央から最も近い北側の光点を選び、玄理とは別方向へ走った。肩の痛みも睡眠不足も残っていたが、今は自分の身体を完全に休ませる余裕がない。廊下の角を曲がると、壁面の非常設備箱が白く発光しており、その中に親指ほどの銀色の鍵が浮いていた。灰乃が掴むと〈避難鍵・所有者登録完了〉という表示が出て、残る光点が3つへ減る。玄理もほぼ同時に西側の鍵を確保したらしく、区域図上で彼の名前へ鍵の印がついた。その動きに迷いはなく、自分の分を取った直後から周辺の生存者の位置まで確認している。3本目の鍵を得たのは椹木啓吾だった。電子錠や建物構造へ詳しい彼は、他の者が点滅する案内表示だけを追う中、サービスパネルの裏側へ回り込み、非常用配線に沿って出現位置を特定したらしい。細い身体を壁際から滑り出させた時には、すでに銀色の鍵を握っていた。残り1本。その表示が出た途端、中央南側へ5人が殺到した。その中に航志もいる。鍵は天井から吊られた非常梯子の下へ出現し、最初に飛び込んだ男が指先で触れかけたところを、別の男が肩から突き飛ばした。床へ倒れた身体を航志が踏み越え、横から伸びた腕を肘で払い除ける。昼間の箱争奪戦と変わらない殴り合いが始まり、誰も鍵以外を見なくなった。土師茉緒だけが、その輪へ入っていなかった。少し離れた壁際で、争奪戦の最初に転倒した男の傷を押さえている。男は脇腹を何かの刃で深く切っており、指の間から大量の血を流していた。茉緒は自分の安全区画入りが遅れることを理解しているはずなのに、シャツを裂いて圧迫し、出血点を確かめながら「押さえろ、死にたくなきゃ手を離すな」と怒鳴っていた。玄理がその姿を見た。自分の鍵を握ったまま数秒立ち止まり、そのまま茉緒の方へ歩こうとする。「これを使え」茉緒が顔を上げる前に、灰乃は玄理の腕を掴んだ。
『大好きな家族に、もう1度会いたいですか?』明るすぎる少女の声が、血と消毒薬の匂いが残る居室へ響いた。灰乃は反射的に黒い端末へ手を伸ばし、画面端の閉じる表示を押したが、指先の下で白い印が一度沈むだけで映像は消えなかった。音量ボタンも反応せず、机へ伏せても再生は止まらない。終末前の住宅広告を思わせる明るい居間では、数十分前に玄理自身の手で処置された小春が、黄色いウサギのリュックを背負って笑っていた。画面の中の小春には首の後ろの噛み傷も、発症前に浮かんだ汗もない。頬には健康な赤みがあり、黒髪は左右へ綺麗に結ばれ、その背景には白いカーテンと湯気の上がる食卓まで映っている。窓の外では鳥が飛び、誰かが焼いたらしいパンが籠へ盛られ、終末など最初から存在しなかったような光景だった。灰乃がほんの少し視線を外すと映像は停止し、〈視聴を継続するには広告をご覧ください〉という文字が中央へ浮かぶ。まるで死んだ子どもの姿を最後まで見つめることまで、報酬の代価として要求しているようだった。『今だけ家族再会キャンペーン!』軽快な電子音が弾け、小春の横へ色とりどりの風船が浮かんだ。少女は両手を広げ、その後ろでは顔の見えない男女が食卓へ料理を並べている。母親と父親を模しているのかもしれないが、小春の本当の家族なのかどうか、灰乃には確かめようがない。その画面下へ、報酬欄がゆっくりと開いた。〈最後まで視聴すると安全区域情報を獲得できます〉玄理の顔から残っていた血の気がわずかに引いた。彼は壁際に置いた黄色いリュックと端末の中の少女を交互に見てから、低く言った。「見るな」灰乃は端末を持ち直した。「見ます」「蓼丸」「情報が必要です」「他の方法を探せ」灰乃は答えず、表示された選択肢へ目を落とした。〈スキップする・報酬なし〉と〈最後まで見る〉。安全区域という言葉がどこまで信用できるかは分からないが、少なくともシステムがわざわざ報酬として提示する以上、この高危険区域を生き残るために関係する情報である可能性は高い。目の前にある情報を、苦痛だからという理由だけで捨てる余裕はなかった。灰乃が〈最後まで見る〉を押すと、30秒のカウントが始まった。小春は画面の中央へ座り、白い皿へ桃の缶詰らしい果肉を並べている。黄色いリュックの少女が桃を好きだったことを、灰乃はまだ知らない。それでもあまりにも生活
午前4時を過ぎたばかりの廊下には、夜間領域へ排出された花房夫妻の居室が消えた余韻さえ残っていなかった。全居室の防御値は何事もなかったように回復し、灰乃の扉を走っていた亀裂も完全に塞がれている。その新しい金属板を、外側から小さな拳がもう一度叩いた。大人が助けを求めて殴りつける音とは違い、ためらいがちな弱い響きだった。灰乃が監視画面を切り替えると、扉の真正面ではなく、カメラの死角に寄るように立っていた小さな人影がようやく映り込んだ。黄色いウサギの耳がついた小さなリュックを背負い、肩までの黒髪を2つに結んだ少女だった。服の袖や膝には埃がついているが、画面で確認できる範囲に大きな出血はない。年齢表示を照合すると〈粟生小春・11歳〉と出た。周辺には感染者の反応がなく、少女の背後にも誰かが潜んでいる様子はない。小春は怖さを押し殺すように口を固く結び、扉の前で泣かずに立っていた。「開けてください。お願いします」玄理はすぐに扉へ向かったが、灰乃は解錠パネルへ伸びた腕を掴んだ。花房夫妻を助けられなかった直後だからこそ、目の前に現れた子どもへ手を伸ばしたくなるのだろう。それでも、扉を開けてから感染を確認する順番だけは選べなかった。玄理が振り返ると、その目には急ぐ理由がはっきり浮かんでいたが、灰乃は手を離さず監視画面を示した。「確認してからです」「見える範囲に傷はない」「見えない場所にあれば同じです。噛まれていないか確認します」玄理の顎がわずかに強張ったものの、反論は続かなかった。灰乃はインターホンをつなぎ、小春へ両手が見える位置まで下がるよう頼んだ。少女は一瞬不安そうに扉を見上げたあと、素直に従った。灰乃が袖を肘までまくるよう告げると、小春は黄色いリュックを片方の肩へずらし、左右の袖を順番にまくった。細い腕には擦り傷ひとつなく、手の甲や指にも血はついていない。「顔を横に向けられる?」小春は右、左と顔を動かした。頬にも耳にも傷は見えず、裾を少し上げてもらって確認した膝から下にも、転んだらしい薄い汚れ以外の異常はなかった。灰乃が質問を続ける間、小春は「大丈夫です」「噛まれてません」と何度も答え、そのたびに小さな喉が上下した。怖いのに泣かないよう我慢しているのが分かると、灰乃の胸の奥に鈍いものが残ったが、それを理由に検査を省くことはできなかった。「1人なの?」「はい。
投票開始から10分も経たないうちに、蓼丸灰乃と縵谷玄理の名前は他の候補を大きく引き離していた。世界チャットには投票数とともに理由らしき言葉が積み重なり、その多くが航志の書き込みを引用している。彼は昨夜、感染者へ〈誘導標識〉を取り付けて灰乃の居室へ群れを集め、高出力砲台まで向けたことには一言も触れなかった。代わりに、灰乃と玄理が大量の特殊アイテムを所持していること、2人とも高レベルであること、他の生存者より危険区域へ耐えられる可能性が高いことだけを並べ、「最も生存率の高い2人へ任せるのが合理的だ」と繰り返していた。殺すために送り出すのではなく、強い者へ役目を任せるのだという形へ言い換えれば、投票する側も自分の指を汚さずに済む。〈縵谷玄理はLEVEL5だ。外へ出ても戻れる可能性がある〉〈蓼丸灰乃も特殊装備を持っているんだろ。俺たちより生存率は高い〉〈家族を3人も見捨ててるなら、今度は他人を助けてもいいんじゃないか〉流れていく文章を追いながら、灰乃は端末を膝の上へ置いた。多数決は、人数が増えるほど正しさに似た顔をする。自分1人では押せないボタンも、100人のうちの1票になれば押せる。強い人間なら死なないかもしれない、資源を持つ人間なら少しくらい奪っても困らない、家族を見捨てた女なら自分たちのために犠牲になっても当然だと、それぞれが少しずつ理由を持ち寄れば、最後には誰も自分が2人を殺したとは思わなくて済む。玄理は壁面端末へ表示された規則を何度も開き直していた。右肩の包帯には薄く血が滲んでいるが、先ほどから痛みを訴える様子はない。〈生存バインドペア1組を指定〉という条件を押し、排出対象の設定、投票方式、バインド解除の可否まで確認している。灰乃も隣から表示を追ったが、解除項目は灰色に閉ざされ、現在の親密度10では操作できないようになっていた。「俺だけ外へ出られないか試す」玄理が言った。灰乃はすぐに顔を上げた。「1人で出れば投票条件が満たされません」「条件を満たす必要はない。俺が先に夜間領域へ出れば、対象ペアとして成立しなくなる可能性がある」「それでも試すんですか」「他に何かあるか」玄理は本気だった。自分だけを排出させ、灰乃とのペアそのものを投票不能にできれば、少なくとも彼女は残せると考えている。その発想が出たこと自体には驚かなかった。玄理は手が届く位







